看護師仲間の退職や転職

バブルが今にもはじけようとする平成3年。21才の私は都内の某医科大学病院付属の看護専門学校を卒業、無事国家試験に合格し同病院に就職しました。

当初、保健師の資格を取得したいと考え専門学校を受験しましたが合格に至らず、就職の形をとりました。配属された病棟は、内科。

元々、地域の訪問看護師や保健師になりたかったので、その分野で必要になるであろう分野の患者さんがいる病棟の勤務を希望し、それが叶っての就職でした。

大学病院は、第三次救急医療機関で検査体制も整っており、クリニックレベルでは治療の難しい患者さんが入院されるところなので、ここで3年間看護師としての基礎固めをし、4年後は地域の看護師として働きたいと考えていました。

実際に私の勤めた大学病院は、結婚その他の理由で退職・転職する看護師は多く、病棟勤務看護師は20代がほぼ半数以上を占めていました。

実際に勤務を始めていくと、自分の経験の浅さ(看護師として・人間として)から、様々な失敗や学びがあり、今振り返ればいろんな意味で、とても充実した3年間でした。

いろんな意味といいますのは、自分が学生時代に想像していた看護師の仕事とは違い、社会人としての厳しさや矛盾・職場での人間関係など、様々な経験があったからです。

どの仕事でも同じだと思いますが、自分の進みたい仕事の方向とは全く違ったものを担当することになったり、上司からは厳しい指導を受けたり、8割は我慢・忍耐の日々。

よく、同期5人で仕事帰りに愚痴を言い合ったものでした。

残りの2割は、難病や生死に係わる疾患を抱えた患者さんとのふれあいの中で人生勉強させて頂き、とてもありがたい仕事経験をさせて頂いた感謝の日々でした。

仕事を始めて1年経った頃、同期の1人が九州の地元へ戻りたいと退職しました。

2年経った頃、もう一人は医師との結婚が決まり退職しました。

そして私は、当初の希望であった3年で転職希望でしたので、2年過ぎた初めのころ、看護師長に1年後の退職希望を告げました。

そしてその数ヵ月後、想定外のことを看護師長から告げられ、大きな葛藤・悩みを抱えることになったのです。

突然の異動

看護師長に1年後の退職希望を伝えた数ヵ月後、夜勤を控えた前日に、看護師長からの電話が鳴りました。

「ねえ○○さん(私)、相談したいことがあるの。5月から他の病棟で看護師が足りなくなって是非ね、○○さんに異動してもらえないかしら。あなたなら、自分の意見もきちんと持ってるし私も自信をもって異動先の看護師長さんに薦められるんだけど。お願いできないかしら」

その時私は、自分自身を師長が頼りにしてくれていると思い、私で良ければと異動を承諾しました。

ですが、数日経ち考え直してみると、現病棟でやり残している仕事(看護研究のプロジェクトメンバーでした)もあり、3年間同じ職場で勤務をやり終えたい気持ちが強くなったので、異動辞退の申し出をしました。

もしかしたら、1年後に退職すると伝えたので、私は現職場にもう必要とされていないのかも?と切ない気持ちや疑念の心も抱き、感情的になっていたように思います。

「師長さんは、もう私がいらないんですか?」電話越しに切羽詰まった声で話す私に、師長は「そんなことないわ。私は、みんな(全スタッフ)が大切なのよ」

みんなが大切?一人ひとりの気持ちは大切じゃないの?と、ますますひねくれる当時の私…

今振り返ると、なんて自分勝手な22才の小娘。

今、自分が師長の立場だったら、やはり私が異動候補にあがると思います。

そのような半分諦めと落ち込みの中で、職場異動となったわけですが、腹をくくり、異動先も大変な状況にあるのだから、決まった以上は、精一杯仕事しようと心に決めました。

幸運にも、学生の頃から仲の良かった友人が同時期・同病棟に異動が決まり(彼女は希望しての移動)、しぼみきっていた私の心が元気を取り戻しかけていました。

異動先の病棟は、生死にかかわる疾患の患者さんが中心ということもあり、雰囲気が前病棟とはまるで違いました。

同じ電力量の照明器具がついているはずなのに、ワントーン暗く感じます。

看護師不足を切り盛りする異動先の師長は、常に今にも倒れそうな青白い顔でした。とにかく早く新しい環境と仕事に慣れなくては…と働き始めましたが、ここでもまた、驚くような事態が私を待っていました。

人間関係のトラブル

「○○ちゃん(私)、よろしくね~」異動先の病棟で私を待っていたのは、学生時代の同期2人でした。

さほど仲が良かったわけでもないA子は、学生の頃後輩から怖がられるグループのボス的存在でした。

B子は、同グループ内にいましたが、私と好きなロックバンドが一緒だったので、1度一緒にコンサートに出かけたこともある友達でした。

2週間程、仕事に慣れるために研修を受けていたときのことです。

B子に、ある業務を指導してもらっていたとき、私の行った手順に対し「それは、違う。」と指摘されました。

郷に入れば郷に従えば良かったのですが、手順の違いはあっても仕事の結果になんら問題はないので「このやり方で進めて同じことよね?」と自分のやり方を主張した際、B子は「まぁ、いいんじゃない」と、明らかに不服そうな表情を見せました。

それでも、看護師として前病棟で働いてきた自信が私にもあり、そのまま仕事を続けていきました。

そして数日後には、A子から「○○ちゃん、本当はここに異動するの本意じゃなかったって聞いたんだけど…。今年度で辞める予定だからって思ってるかもしれないけど、仕事はちゃんとやってほしい」というような内容のことを言われました。

すかさず私は反論しました。

「確かに最初は異動希望じゃなかったけど、異動が決まった以上は、一生懸命にやろうと思って働いてるよ」と。

A子は、ブスっとした表情で言い返すこともなく黙っていたように思います。

そのことを私の親友に打ち明けると、「あぁ、A子は○○ちゃんとは合わないと思う。私もね、以前すごく嫌なこと言われたよ」という返事が返ってきました。

そのような人間関係のトラブルを我慢しながら、退職希望月が近づいた頃、総看護師長から私に呼び出しがかかったのです。

「○○さん、退職するのをひと月延ばしてもらえないかしら。あとひと月延ばせば、退職金も数倍増えるんだけど」

今、思えば有り難い提案ですが、24歳当事の私としてはこの我慢我慢の職場環境を一刻でも早く去りたかったので、「病棟を異動する時点で退職時期は約束していただいていましたから、ひと月伸ばすことはできません」と総看護師長に伝え、退職の運びとなりました。

そして、転職先の病院では、また、様々な葛藤や体験が待っていました。

転職。理想の看護師を目指して

私が転職先に選んだ病院は、かねてより希望していた職場でした。

地域の訪問看護師として働きたいと思っていたため、その道を専門とする病院の門を叩き、転職に至りました。

しかし、最初からすぐに地域の現場へというわけではなく、まずはその中核病院の病棟に勤務して下さいという指示が総看護師長からあり、再び病棟勤務をすることになりました。

大学病院とは違い、職場の看護師平均年齢は40歳位で、ぐっと上がっていました。

20歳代は片手で数えられる位の人数。当事24歳の私は新人同然の雰囲気…。とにもかくにも、再び職場に慣れることから再スタートでした。

働き始めて気づいたのですが、ここの職場は政治活動や組合活動に熱心なところでした。

本人の意志を問うことなく、当たり前のように選挙活動に狩り出されることもあり、気づけば白衣のまま選挙カーのウグイス嬢をやらされている私がいました。

転職して1年経ち、新人さんが入職してきたときには、私にプリセプターナース(新人指導係り)の役目が回ってきました。

なんとかそれを1年こなし、さらに次年度もう1年こなし、3年目に再び同じ役回りを看護師長に相談されたときには、さすがに気づきました。

「なんだか良いように、使われてる…」

訪問看護師になりたくて転職したのに、いっこうに異動の辞令はでないのです。

私よりも後に転職してきた看護師が、訪問看護ステーションへ異動していきました。

ですが、自分自身の中で実際の現場で感じたのは、病棟看護師と訪問看護師の温度差でした。

当事、世間的に華やかに活躍していた訪問看護師への嫉妬があったんだと思いますが、病棟の同僚はあまり良い評価を訪問看護師にはしていませんでした。

また、私も働いていて訪問看護師から言われた言葉にとても傷つくことがありました。患者さんのケアの仕方を上から目線で注意されたことがありました。

前々から病棟看護師をしていて、忙しさから1人の患者さんに十分なケアができていないジレンマを常に抱えていたので、「わかっちゃいるけど、できないんだよ現状では!」と悔しい気持ちでいっぱいになっていました。

そのような日々の中、心身の疲労感もあり、自分の選んだ転職先で自分自身の方向性が見えなくなっている私に、看護観を見直すチャンスが訪れました。

それは、とても辛くもあり、しかし大きなギフトとなって自分の確固たる看護観を見出せた素晴らしい体験でした。

看護観の確立

「○○(私)さん、今度是非、研究所へ行ってみない?」

ある日、総師長から声をかけられました。看護研究所に代表でいってみないか?という内容でした。

その研究所は、将来の管理職候補者が必須の研究所で、どうして当事25・6才の私が声をかけられたのか疑問でしたが、自分の看護観をじっくり考えてみたい思いもあったので、通学することになりました。

勤務しながら合間合間で通学させてもらうため、勤務日程を組んでもらい半年間通いました。

研究所の先生方はとても厳しく、「血を吐いてでも来なきゃいけない雰囲気ね」と、冗談半分、本気半分で同僚と話していました。

何冊も分厚い課題図書本を購入・読破し、論文を仕上げるのはとてもとても大変でしたが、なんとか論文を仕上げ発表会までこぎつけることができました。

嬉しかったのは、私の論文発表を聞いて、ある看護雑誌の方から掲載のお誘いを頂いたことでした。

また、所属していた病棟看護師長から「○○さんの発表が1番良かったわ」と、お褒めの言葉も頂き大変な思いをした分とてもホっとし、救われた気分でした。

そして、何よりも自分の看護観を確立でき、今後の私の仕事の方向性に揺るぎない核となるものを見出せたのは、大きな収穫でした。

ですが、翌年、その核が見出だせたが故に仕事現場の看護と自分の理想の看護にギャップを感じ、体調を崩して退職となってしましました。
 
1年半の休養を経て、次に働き始めたのはデイサービスセンターでした。

医療の場から、福祉の場への転職でした。

以前、少し体験したデイサービスの現場の雰囲気がとても良く、忙しさと緊張満載の病棟勤務よりも、少し肩の力を抜いて仕事ができました。

夜勤が無いのでお給料は減りましたが、自分の心と身体が健康でいられる職場で働くことが何よりも大切だということがわかりました。

この職場でも課題はあり、悩むこともありましたが一つ一つ乗り越えていくことで大変勉強になり、今までで最も良い勤務ができました。

おそらく、どの職場に転職しても自分というものが良くわかっていなければ同じような課題にぶつかっていくものであったのだと思います。

その後、結婚・出産を経て現在、10年ぶりに職場復帰をしています。

乳幼児健診での看護師のパート勤務です。

どの職場へ移っても、自分にとって大切なものは何か?、譲れないもの・妥協できるものを判断し、バランスをとりながら仕事をしていくことが大切だという結論にいたりました。

そして何よりも健康で、笑顔で時々輝ける自分・ワクワクする気持ちを大切にしていけば、自分も周りの人も幸せなのではないかな、と感じています。