私は、総合病院付属の看護学校を卒業後、エスカレーター式にそのまま入職しました。

1、2年目は、内科、皮膚科、形成外科の混合病棟へ配属となり、様々な領域の看護を学ぶことができました。

しかし、とにかく忙しい病棟でナースコールは常に鳴りっぱなし、まだ新人だった私は業務をこなすことに必死で、毎日24時間仕事をしているかのような気分でした。

2年目の終わりに、ずいぶんと病棟業務も慣れて受け持ち患者さんとも落ち着いてコミュニケーションがとれるようになった頃、異動命令があり、3年目からは胸部外科に配属となりました。

そこは、今までとは別世界でした。

というのも、私は外科の経験がほとんどなかったので、一から業務を覚え、病態生理や周手術期看護の復習をし直し、勉強会に積極的に参加するなどしてとにかく専門的に集中して勉強、仕事をした時期でした。

心、呼吸器疾患の患者さんが中心でしたので、急変も多く「生と死」というものを深く見つめるきっかけとなりました。

ちょうど4年目に入ったとき、癌の治療で入退院を繰り返していた患者さんが、きっと今回の入院でもうダメかもしれないという末期の状態で再入院となりました。

がん性疼痛のコントロールが難しく、主治医、薬剤師や師長も交えて毎度毎度カンファレンスを行い、少しでも痛みが緩和し、もうこれ以上苦しんで欲しくないという思いでいっぱいでした。

しかし、なかなか良好なコントロールが出来なかったので足浴やマッサージをしたりとケアに集中していました。

このケースをきっかけに、緩和ケアに興味を持ちはじめました。

当時、私の勤めていた病院では、まだ緩和ケアというのはほとんど重要視されていませんでした。

なので、もっと学びを深めたい、緩和病棟ではどんな看護を必要とし、されるのかを知りたくてしょうがない気持ちが強くありました。

先輩や同僚に相談すると、賛否両論でしたが最終的には自分がやりたいことをやることが一番だ!と吹っ切れて、思いきって緩和ケア病棟のある病院へ転職しました。

転職にあたっては、前病院でかなり引き止めにあい、なかなか辞めさせてもらえなかったです。

しかし、私の熱意に負けて(?)上司も折れてくれました。

やはり「もっと学びたい」という気持ちが、私の転職までの道のりを乗り越えれた原動力だったと思います。

転職先探しよりも上司の引き止めに疲労困憊

私が、転職を決めて次の病院へ動くまでには半年ほどかかりました。

はじめは、緩和ケア病棟で看護をしたいと思っていただけで、実際にどうやって転職をするのかまったく情報収集をしていませんでした。

その頃は、私が住むエリアから通える範囲の緩和ケア病院も数えるほどしかなかったので、そのうちのどこかに行ければいいな、という程度でした。

しかし、転職したいと師長に打ち明けた時に、私がいかに漠然とした考えしかないということを思い知らされました。

もっと、転職先を具体化する為に、どんな病院や病棟か、また給料や休みのことなど、事細かに調べる必要があることに気付きました。

フルタイムで病棟勤務をしながらプリセプティを育てたり,委員会業務など山ほどしなくてはならないことがあったため、なかなか転職に向けての準備に集中することができませんでした。

そこで、そんな私を見かねた同僚が転職サイトを紹介してくれ、そこにお願いして色々とサポートして頂きました。

電話やメールの相談から面談もしてもらい、いくつか病院を見学に行ったりしました。

また、偶然にも知り合いの友人が緩和ケア病棟で働いていたので話を聞く機会があり、少し内部のことを知れたのが一番良かったです。

やはり同業者の人脈は大事だな、とつくづく思いました。

そうこうして、やっと転職先が決まり、勤めていた病院からも退職のお許しをもらえ、新たなスタートとなりました。

本当のところを言うと、転職先が決まったのは早かったのですが、退職するのが大変でした。

というのも、上司の引き止めがすごかったのです。

私の場合は、師長と3回程話をしてやっとのことで外科の統括師長に話をしてもらえ、その後、統括師長と2回面談、そして最後の最後に、看護部長と副部長との面談を経ての退職となりました。

こんなに退職するのにパワーがいるのかと言うぐらい、精神的にも疲労困ぱいで、もう二度とこんな思いはしたくないと思いました。

今となっては、いい社会勉強になったと前向きに考えていますが、このような経緯で私の初めての転職は無事に終えたのでした。